JA紀南広報誌

2016年6月号p23-01

2016年6月号もくじ

JA女性会つどい・家の光大会  

おおきによ
串本ブロック 柴田 由香利さん  

 こんにちは。私は、柴田野苺という別名で歌を唄っているお百姓シンガーソングライターです。
 今になって思い起こせば、串本での15年の暮らしは豊かな本の一節のようなものでした。しかも、たくさんの挿絵、目の覚めるような色刷りの挿絵のついた本です。
 「海辺の野外劇は次から次へと素晴らしい光景を繰り広げながら、堂々と移り変わっていったのです」(童話『たのしい川べ』より引用)と言うように、トマトの赤、パープル色のナス、黄金色したトウモロコシ、風にゆれる稲の穂、そしてどこまでも青い空が広がり、豊かな海がある。そんな串本に惚れ込んで移住したのが45歳の時です。
 まず、私と10歳の長男、16歳の次女、そして母との自給自足の暮らしが始まりました。私は、45歳で初めて自分のために鍬を買ったのです。
 今では春野菜、夏野菜の栽培や、高富地区で田んぼを借りての合鴨農法の他、約30羽の鶏を育てたり、花やハーブを作っています。
 新米農家の私にとって、地域の高齢の方お二人が農業の師匠でした。
 古座川町一雨(いちぶり)のじいちゃん先生はもう亡くなってしまいましたが、育苗、田植え、全て一から厳しく習いました。一番怒られたのは、草刈りの時期を逸してしまい、稲より草が勝ってしまった時です。「なんやこれは。本気で米つくる気がないなら、もう田んぼは貸さん」。
 謝って謝って、もうこの人についていくぞと、雨の日も風の日もバイクで一雨まで通いました。最後には心通う日々があり、私が行くとばあちゃん(奥様)が、「きのこご飯を炊いたから」と一緒に食べたり、お二人の結婚式の写真を見せていただいたり。
 残念ながらもうそれは、戻らない日々。最後にじいちゃんは病院で、「一雨」と故郷の名を聞くと、ポロッと涙を流し「もう一度帰りたい」と一言。
 もう一人は近くに住むおばあちゃん。トマトやスイカの育て方を教えてくれました。
 「柴田さん。トマトの種を腹巻きに入れとくんや。お風呂の時以外はずっと肌身離さずやで」と、自分の体温で発芽させることも習いました。芽が出て、移植しても毛布をかけて太陽にあてたり、夜は家の中に入れたり。
 「トマトの苗を育てるのは、赤ん坊のように。我が子やと思って」「スイカは、ほんまに肥食いや。山を作ってその周囲にたっぷり堆肥をあげるんや」などと教えていただき、お陰で1年目の夏に13個の大小様々なスイカが採れた時には、嬉しさと熱気で頭がクラクラしました。
 9年後にやっと夫が合流しましたが、それまでお百姓の他、お金を稼ぐ仕事ではヘルパーや皿洗い、アロママッサージ、音楽の先生と飛び回っていた私は、ある日バタンと倒れこんでしまいました。
 「あら?こんなはずではなかった。お百姓をベースに、本当に自分のやりたいことを見つけねば」。それが、シンガーソングライターの道でした。
 回り道をいっぱいしましたが、今は好きな歌を唄ってお金をいただくという昔からの夢が実現しています。
 12年後に次女が、そして長女もパートナーと共にやってきて結婚し、田並で古い家をリフォームして暮らし始めました。これには、びっくり! だっておかんの暮らし方、考え方を、今までは「?」という目で見ていたはず。
 娘たちは地元の田並神社で古式ゆかしい結婚式を挙げ、白無垢を着て地域を練り歩くということもしました。
 知人、友人で移住してきた方も多くおり、娘たちも含めて数えてみると、のべ35人の人たちが、私の家の近くに越して来て、そのまま落ち着いています。
 長女は小説を書き、次女は映画作り、長男は都会で漫画を描いており、各々創造をしています。
 子どもたち、孫たちが、いつかその才を、この地域や人々のために活かし、「今日の晩御飯は、畑でとれた人参、キャベツのサラダ、狩で得た猪肉、庭のレモンジュース」というような、自給自足の暮らしとブレンドさせてほしいと願っています。
 あっ。最後の切り札、パートナーの夫のアーヤンを忘れていました。彼がやって来たおかげで、プライミング発芽、合鴨農業や燻製作り、堆肥、小屋作り、狩猟と広がりました。
 串本さつまいも会にも加入し、「さつまいもは嫌いだ」と言っていたのに、毎日食べるほど。今は会のマドンナたちと「なんたん蜜姫」に恋をしているようです。(平成28年2月5日、紀南文化会館)

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