JA紀南広報誌

2016年2月号p16-03

2016年2月号もくじ

コラム  

餅つかぬ里
新庄支所長 宮越 貴博  

 最近、年のせいか食べ物の好みが変わってきた。今までは、なんといっても肉! 三食とも肉がなければ物足りない感じだった。
 50歳を過ぎた頃、食後の胸焼けが気になりだし、あまりにひどいので胃腸科を受診したら、逆流性食道炎という病気が発見された。今では食後の服薬が欠かせない。
 胸焼けが怖く、好きな肉も控えざるを得ない。しかし、けがの巧妙もあった。野菜や芋類、果物のおいしさを再発見できたからだ。
 実家は山間部で、サトイモやサツマイモを作っており、芋類は頻繁に食材に使われていたが、改めて手間暇をかけて作ったものの美味しさを認識している。
 さて、私が生まれた田辺市鮎川の小川地区は「餅つかぬ里」と呼ばれている。そのいわれは後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王(おおとうのみや もりよししんのう)に由来すると伝わっている。
 後醍醐天皇の倒幕計画が鎌倉幕府に漏れ、追われる身になった大塔宮護良親王は、わずかな家臣と山伏の熊野詣姿を装って、熊野に逃れて来た。小川の里に差し掛かったとき、一行は里の者に食べ物を求めた。ちょうど年末で、どの家も餅はあったが、宮さまだとは知らず餅をあげなかったという。
 その後、里の者は、山伏が大塔宮護良親王の一行であったことを知り、餅を差し上げなかったことを悔やみ、非礼へのお詫びとして、以後、いっさい正月に餅をつかないことにしたという言い伝えだ。
 このしきたりは長く続いたが、昭和10年、京都の大覚寺で大塔宮護良親王の600年御遠忌法要が営まれた際、小川地区の代表者が参列して、餅を供え、昔の非礼をお詫びし、それからは正月に餅をつくようになったという。
 餅の無い時の雑煮は、サトイモの親芋を煮て器に入れた「ぼうり」というものであったとのことだ。
 小学生の頃、先生から「君らは正月に餅を食べんのか?」と不思議そうに聞かれ、疑問に思って父に聞き、初めてこの話を知った。
 現在の食卓では、脇役であることの多い野菜や芋ではあるが、歴史を感じながら食すると一段と旨い! 先人の苦労に感謝するとともに、子や孫に美味しいといわれる農作物を作れるよう、私も少しは習っていこうと思う。

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional