JA紀南広報誌

2011年7月号p26-01

女性会つどい・家の光大会 体験発表要旨③  

義母を看取って
窪田 俊江
白浜ブロック とんだ支部

 私は白浜町中で生まれ育ちました。結婚を機に大阪で暮すことになり、主人は会社員、私は娘3人に手伝ってもらいながらファッション文具の店を営んでいました。大阪での暮らしは33年になり、その間に娘3人の結婚、念願の我が家を持つこともできました。
 ある日、田舎でひとり暮しをしていた義母から「私も80歳になったので、白浜へ帰ってきてほしい」との電話が。娘や孫と離れること、汗水流して購入した我が家を手放すこと、住み慣れた土地を離れることになかなか決心がつかず、夫婦で話し合ってきましたが、平成2年にこちらへ帰って来ることになりました。
 自分の育ったところとはいえ、30年余りも離れていたせいか、近所との付き合いもなかなかうまくできず、しばらくは遠く離れた娘や孫、店のことを思い出して、眠れぬ日々が続いたものです。 寂しく過ごしていた時、私の好きなカラオケセットを主人がプレゼントしてくれたり、ねぎらいの言葉を掛けてくれたりと心を癒してくれました。
 その主人が大腸がんとなりました。息子の帰郷に喜んでいた義母も、とても心配したことと思います。手術の甲斐あって主人は一命を取りとめ、ひと月後には退院することができました。私には大変なことでしたが、命あっての喜びと幸せを心深く感じました。
 主人の退院後は今までと同じ義母との3人の生活に戻りました。やはり生活になかなか馴染めませんでしたが、歌が好きな私は、主人からもらったカラオケを通じて近所の方々と仲良くなることができ、地域の婦人会やJA女性会へも入会させていただきました。 人の中へ出向くことは楽しく、出掛けると気分転換にもなり、自然に笑顔もこぼれました。時には、歌仲間と歌いに出掛けることもあり、心うきうきする生活となりました。
 その頃には主人もだんだんと元気になり、義母が畑に行くときは一緒について行くようになりました。義母はとてもうれしそうで、時には市場に出荷することもありました。
 しかし、この頃から義母は足が痛いと言うようになり、私と主人が野菜を採り、出荷するようになりました。それからの義母はあまり歩けなくなり、食事も「自分の部屋へ運んでほしい」と言うようになりました。
 食事とおやつを義母へ持っていくことが生活の一部となって、出掛けていても食事やおやつの時間が気にかかり、先に帰らせてもらうこともありました。そのうち一人での食事も難しくなり、そばで介助する時間も増えてきました。
 しばらくして、義母は物忘れがひどくなり、突然「タンスに入れてあった通帳知らんか、財布もないよ」と頻繁に言うようになりました。主人は「病院で診てもらおう」と言ったのですが、義母は「病院はイヤ、注射もイヤ、この家であんた達と暮らすのが一番ありがたい」と言うので、様子を見ることにしました。
 今度は失禁がひどくなったため、無理やり病院へつれて行くことになりました。先生は「どこも悪くはない。失禁は年齢的なものですからオムツをしてあげたら」と言われ、早速オムツをしてみたのですが本人はとても嫌がり、私の手に負えないほど大変でした。この時ほど、今のパンツ式のオムツがあればどんなに助かったかとつくづく思いました。
 また、お風呂に入れるのも主人と2人なのですが、介護の知識もなく大変な作業でした。そのうち義母は床ずれも出はじめ、毎日体位を変えるのもひと苦労でした。
 こんなことが続き、私も徐々にストレスがたまるように。そして急に血圧が上がり、めまいがして息苦しくなり、救急車で病院へ運ばれました。その結果、ひと月ほど入院することになり、その間主人が義母の介護をしてくれました。
 自分の親とはいえ、男の人が介護をするのは大変だったと思います。現在のように、ヘルパーさんのお世話になれれば、どんなに救われたか…。
 退院してからは主人と二人で手を取り合って義母を介護し、「辛い時は言ってくれ。おまえが倒れたら一番困る」と励ましてくれました。
 土・日曜日には主人の妹たちも見舞いに来てくれるように。そんな時は義母も調子がいいのか菓子や果物などを食べるのですが、あとからもどすこともたびたびでした。その後、義母はあまり食事もとらなくなり、心配した私たちは、はまゆう病院より往診に来てもらうようになりました。
 平成8年の夏は残暑が厳しく、少しでも涼しくなるかと思いアイスクリームを少しずつ義母の口に入れてあげると、小さな声で「おいしいよ、気持ちいいよ」とすやすや眠り始めたことを憶えています。
 その頃から、主人と私が交代で義母について寝るようになりました。義母も「息子がそばで寝てくれるなんて幸せや」とたいそう喜び、私にも手を合わせてくれました。
 9月末の深夜、義母に付き添っていた私に「おまえも疲れてるだろう」と主人が交代してくれました。しかし、1時間もしないうちに「ちょっと母さんの息がおかしい」と急いで病院へ向かいました。診察を終えた先生から、「知らせる方がおられましたら、知らせてください」とのことで、大阪の妹たちに連絡し、主人と義母の手をしっかりにぎりしめました。しかし、平成8年10月1日、母はそのまま静に眠りにつきました。
 主人から「よく頑張って最後まで看てくれてありがとう」と声をかけられ、私も「二人力を合わせて介護させていただいことに悔いはないね」とねぎらいあいました。
 妹たちからも「長い間お世話いただき、母も幸せだったと思います」との感謝の言葉に涙が止まりませんでした。介護していたときにはいろいろな思いもありましたが、妹たちの言葉で胸のつかえがスッととれた思いでした。
 女性会では役員もさせていただき、クッキングフェスタや家の光大会には毎年参加しています。日帰り旅行も大きな楽しみの一つ。これからも積極的に、できる限り活動に参加したいと思いながら幸せな毎日を送っています。
 でも、心の中ではいつの時か必ず迎える老後のことが頭から離れたことがありません。

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