JA紀南広報誌

2011年7月号p23-01

私にできること 最終回  

ワタシとアナタと人権と
近畿大学附属新宮高等学校 2年 石原 昴季  

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 先日、祖父が脳出血で倒れた。二回目で、しかも発見に時間がかかったため、手術をしても助かる確率はかなり低かった。しかし祖父は一命を取りとめ、今では僕がお見舞いに行くと以前と変わらない笑顔で迎えてくれる。だがそこまで回復するには数ヶ月を要し、術後しばらくはあまり意識が無く、呼びかけにもほとんど応じてくれなかった。お見舞いに行ってベッドの傍らに座り手を握り回復を祈りながら、
 「自分には祖父のために何ができるのだろう。」
ということを考え続けていた。
 最近臓器移植法の改正がメディアで大きく取り上げられた時、移植が可能になって喜ぶ親や子供とは対照に、脳死でも生きている「提供者」になり得る子供たちを見た。その時、僕は
 「もし自分がこの子の父親なら、何ができるのだろう」
という思いを抱いた。先の祖父の件を思い出し、
 「意志を伝えられない人々、彼らは間違いなく人であり相応の権利を有する。だが私たちがその人の代わりに治療の方針などを決めてしまうことで彼の権利を損なうことは無いのか。よかれと思ってやった事が本当にその人のためになったかは知る術が無い。本当に人のためになることを私たち他人が選べるのか。」
という強い疑問を感じました。この疑問は現実の人権問題にも適用されます。例えば世界には貧しく、人権が守られていない状態の人々が沢山います。そして僕達日本人は先進国として国を挙げて、あるいは民間でそうした状況を打破しようとしています。しかし、僕達の取り組みが本当に貧しい国のためになっているのでしょうか。当然、何もしないよりは良いはずですが、僕達が解決しようとする問題が現地の人々が最も解決したがっているものかはわかりません。僕達が与えようとする権利が本当に現地の人々が求めるものと一致するのでしょうか。さらに言えば、日本の中だけにしても、人権を守ることは正しいことだと思われていますが、自分の考える「人権の守られた状態」が他人の考えるものと本当に一致するのでしょうか。人権は人類にとって今や普遍的なテーマですが、求められる人権の形は国、地域、個人によって異なってくるはずです。人権とは人類共通のテーマであるにもかかわらずその内容は個人に発散してしまうものなのです。
 そしてその中で一人でも多く少しでも多く各人の権利が守られた状態を目指すにはどうすればいいのでしょうか。それは語り合いながらお互いが納得できる結論を出す、という努力を続ける他に無いでしょう。他国の人権問題では、その国の文化、価値観といったものをよく見極めた上で、援助活動を行う必要があるはずです。また他者の求める人権をよく考えるためにも、自分にとっての人権とは何か、という部分をよく考えないといけないでしょう。
 昨今、急激な人口増加や環境問題により、難民などの形で人権が十分に守られていない人々は新たに生まれてきています。そうした中で求められる人権の形も社会情勢の影響を受けて変化するのでしょう。各人の間で異なり流動する人権という概念を現実に上手く持ち込むことは難しいはずです。人権を守ろうと声を挙げることも大切ですが、やはり根本は他人の立場に立って考える、ということではないでしょうか。それは簡単ではありませんが、可能な限り他者を理解しようとする、という姿勢を失えば、人権の押しつけになってしまいます。ワタシとアナタは違う。でもその溝を埋めるためには僕達は話し合い、相手の立場に立とうとしなければなりません。難しいことではありますが、その先にこそ、皆の求める人権があるのではないか、と思います。

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