JA紀南広報誌

2011年12月号p05-01

きずな  

代表理事専務 本田 勉
自然災害の多発  

 今年は兎年。ウサギは跳ねるといわれるが、それを裏付けるように自然災害の多い年であった。
 当地も1月末の大雪を皮切りに、5月末の台風による強風、夏の旱魃・高温、9月の2度にわたる台風襲来と大変な受難の連続であった。特に台風12号は、農地や道路・河川の荒廃は言うに及ばず、山野の崩壊に巻き込まれてお亡くなりになった方のご家族には、大きな心の傷を残して去っていった。
 被災された方々には心からお見舞いを申し上げ、お亡くなりになった方には、お悔やみ申し上げると共にご冥福をお祈りいたします。
 今後、私たちは心を一つに、「山青く海青く空青きふるさと」、そして「果樹を基軸にした日本一の産地」の復興に、前を見つめて取り組むことを誓う毎日である。

小川常務・黒田監事逝く  

 先頃黒田監事が入院されたが、お見舞いも実現しないうちに短い闘病生活に終わりを告げ、多方面でご活躍頂いた長い人生の終焉を迎えられた。9月に小川常務が若くして姿を隠されてから、その悲しみが癒えぬ間の無常の報せ。
 農協・地域にとって無くてはならない存在のお二人。
 入院中小川常務は弱音を決して吐かず、こちらの励ましには「迷惑をおかけしますが頑張って病気を退治し、必ず仕事に復帰します」、ご家族には「心配かけてすまん、すまん」と襲いくる痛みの中で相手を気遣う言葉ばかりがあった。ずっと看護された奥様には、さぞやつらい二人の時間を過ごされたことと胸が痛む。
 黒田監事は、20日間の入院生活をとうとう意識が戻ることなく閉じられた。付きっ切りで看護をされた奥様は、その間ずっと話しかけておられたそうである。「答えはなかったが、私には答えてくれたような気がする」「お父さんがゆっくり話す時間をくれたように思う」という奥様の言葉に、お二人の過ぎ来し時間を振り返る濃密な20日間であったろうことが偲ばれる。
 亡くなられたお二人を思うとき、天の無情を恨んでも恨みきれない思いの毎日。しかし時は決して留まろうとはしない。私たちはお二人のご遺徳を偲び、協同組合運動に邁進することでご遺志に応えたい。長い間本当にご苦労様でした。
 どうか安らかに……。合掌

KIZUNA・PART6  

 日置川の上流、寺山から久木へ越える神宮寺の峠に一基の記念碑が建てられている。碑文には鈴木七右衛門重秋の名が刻まれている。七右衛門は、地元日置川では知らぬ者のない江戸時代の大庄屋であり、鈴木家は現在も安居の地に名家として存在している。
 そもそも鈴木家は、熊野・本宮の出身で宇井・榎本と並び、この3家でなければ人ではないと言われたそうである。熊野の神領であった藤白の地頭として熊野から移った鈴木家は、後の義経記に現れる。安居の鈴木家はこの庶流で、代々安居に住んだそうだ。
 さて、話を本題に戻す。
 七右衛門の大きな功績は、安居の集落に水田の用水を日置川から引き入れたことにある。莫大な私財を投じてトンネルを穿ち、居平から落差を利用して水路を作った。
 さしも大庄屋であった七右衛門も、大掛かりで難工事の連続に資金が底を尽き、ある時紀州藩の租米(日置川上流の村々からの租米は船で下り、大辺地街道を通るため安居の砂渕から陸路をとった)を押さえ、工事費用に充てた。
 紀州藩は大騒動となり、打ち首獄門を覚悟した七右衛門だったが、嘆き悲しむ村人に送られて伏虎城に出頭したところ、広く人民のために為したこととして藩公から特に許され、褒美と藩旗を下賜された。
 家産ばかりか命をなげうっての一大事業は完成し、今も安居地区と寺山地区の水田はこの恩恵を受け、春は緑の早苗が薫風になびき、秋には黄金の稲穂が波打っている。
 七右衛門翁もこの田園風景を天から目を細めてご覧になっているであろうが、残念なことに、先の台風12号の河川の増水により一部崩壊してしまった。
 一刻も早い修復を望むと共に、大きな歴史的文化遺産と先人の労苦を忘れぬよう、後世に伝える使命が私たちにはあると思っている。

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