JA紀南広報誌

2010年5月号p27-01

生きがいを求めて  

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なかへちブロック近野支部
前 すみゑ

 私は昭和の初期、今では熊野古道で有名になりましたが、中辺路町野中という小さな山間地で生まれ、意地っ張りと好奇心の強い女の子として育ちました。
 戦時中の生活は、勉強をしたくても農作業優先。成長期の子どもたちはみな栄養不足で、苦しい毎日でした。
 20年8月に終戦を迎え、27年に結婚し、3人の子どもたちに恵まれました。
 自分がしたくてもできなかった夢を子どもたちに託し、私は趣味を兼ねた編み物などの内職を始めながら、社会参加も欠かさないように努めてきました。
 そのころは食糧不足を追いかけるように、即席品が出回り始めた時代でした。
 そこで、子どもたちの成長のためにも安心して毎日使える味噌を作ろうと、生活改善友の会の会員60名で、生活改良普及員さんの指導を受けながら、無添加味噌を作り始めました。
 安心して使える手づくり味噌のおいしいこと。みんなで喜び合い、少しでも多くの人に手づくりの良さを知ってもらい、使っていただこうと、会員の中から6名で加工グループを作りました。
 調理師免許、味噌製造販売の許可をとり、家庭用から土産物へと取り組みを広げていきました。
 ちょうどそのころ近露に国民宿舎ができ、私たちの作った味噌を「自然食品として使いたい」と注文が入るようになり、だんだんと仕込み量も増えてきました。
 いよいよ本格的な製造所が必要になり、国庫や農協、普及所、グループ員の出資金など、各方面の協力を得て加工場を設立しました。
 新しく「近露山菜味噌加工場」の看板が掛けられた時には胸が熱くなり、「さあ、出発だ」と、6人で改めて誓い合いました。
 「手づくり味噌を広めたい」と物産展など、各種のイベントへの出品にも欠かさず取り組んでいきました。無添加のため、袋の膨らみやカビなどで返品がでたりと大変な苦労もありました。
借入金の返済や材料費の工面のため、工場内で椎茸の袋詰めや、しめ縄作りなど、あらゆる内職をしても、グループ員の日当も出ない日が何カ月も続きました。こんなことも、皆が扶養家族なればこそできることでした。
 そんな中、54年にNHKの「奥様こんにちは」で、近露味噌が取り上げられることになり、全国放送されたことがきっかけで、泉南生協や和歌山生協との取引ができることになりました。
 初出荷の時は、赤飯を炊き、涙を流しながら喜び合い、感無量でした。
 出荷の量もだんだんと増えていき、職場にも明るい兆しが見えるようになってきました。これも、グループ員の団結の賜物と、満足感と感謝の気持ちは、心に染み付いていつまでも忘れません。
 味噌を作り始めて25年、ふと自分の年齢に気づき、加工場は若い方にお願いをし、私は念願だった寿司作りやお弁当、惣菜作りに取組むことになりました。
 子どものころ食べた、大豆とイリコだけの炊き込み味噌の味を思い出し、作り始めたのが「鉄火味噌」です。
 栄養のバランスを考え、海や山の材料を使って、自家製味噌と一緒に長時間炊き込んでいます。野菜やおにぎりなど、幅広く使えますので、古道を歩かれる方や、遠く県外の方々からも好評をいただいています。
 お弁当も、地元の食材と手づくりにこだわって、「おふくろ弁当」として作り続けています。
 「まだまだ現役で」と思いながらも、疲れも出てきたところですが、2年前から次男が早期退職をして民宿を営む傍ら、私の仕事もそっくり引き継いでくれていますので、少し安心しています。
 この辺で自分の趣味を楽しんでいきたいと、私の夢はまだまだいろんな方向に膨らんでおります。
 長い年月を振り返るとき、日々を健康に生きていけることの喜びをかみしめて、まだまだ頑張りたいと思います。

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