JA紀南広報誌

2008年6月号p05-01

2008年6月号もくじ

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中国へ慰霊の旅  

 今から4年前、思い立って中国へ渡る機会を得た。目的は、戦死した叔父の慰霊。叔父は1942年10月、22歳の若さで、中国は江蘇省睡寧県古邸鎮で戦死した。
 当時はまだ戦況も悪くなく、遺骨・遺品などは帰ってきており、先祖の墓の隣に手厚く葬っているが、親族の誰一人として戦地に赴いて線香を手向けたものはいない。
 話は変わるが、旧日置川農協組合長を、合併によって退任した平成15年12月、軽い脳出血を起こし、1週間ほど言葉が出にくい状態が続いた。
 1カ月ほどして診察を受け、初めて出血をしていることが分かったが、診察をした医師によると「貴方は大変運がいい。もし出血した箇所がもう少しずれていたり、出血の量が多かったりしたら、言語か運動のどちらかに機能障害が残っていただろう」とのこと。
 改めて先祖のご加護と、この世に生かされている自分を強く感じたが、それと前後して、知人に頼んでいた、叔父の戦死した中国の村が判明したのである。
 因縁と言うか、私には叔父が「中国へおいで。私の戦ったところを見ておいてくれ」と言っているように思えた。
 中国の知人も「案内するからいつでもおいで」と言ってくれた。それに甘えることにして、準備を始める。
 まず叔父の戦友が御坊市にご健在でいらっしゃるので、訪問してお話をお聞きした。県にもお願いして戦歴証明をいただいた。
 そして中国語の勉強である。CD等で発音を聞きながら、1カ月ほど練習して基本的な会話は身につけた(つもりであった)。準備は整った。
 知人に連絡し、6月初旬、勇躍中国へ出発した。上海では甫東空港で出迎えを受け、バスで市内へ移動。レストランで食事を摂ったが、習得したはずの中国語の自信が、初日で見事に打ち砕かれた。
 食事の前にトイレを尋ねたが、まったく通じず。相手の言っていることも早口で、喧嘩を仕掛けられているようでまったく理解できず…。知人に間へ入ってもらって、やっと用を足すことができた有様。
 こんなこと他人には言えたもんじゃない。(これから後は、中国語は封印、すべて知人が頼りとなる)

戦地古邸鎮へ

 2日目は、上海から高速バスで8時間、宿迂で1泊。この町は軍の駐屯地であったという。町の真中に古びたトーチカがぽつんと立っているだけで、往時を偲ぶものはない。
 中国の戦没者の慰霊塔は、随所に立派なものがあった。明けていよいよ古邸鎮へ。タクシーで4時間、途中バス停で道を尋ねる。
 多勢の中で若い男性が、「古邸へ帰るので同乗させてくれたら、古い集落が1カ所だけ残っている所へ案内する」と言う。巡り会わせを感じ案内を請う。
 それらしき古い集落の小高い岡の上に寺院があり、ここを戦死の場所と決め、花を手向け中国へ来た報告をする。
 相当な田舎である。叔父は歩兵砲の隊長として上海上陸以来各地を転戦、長い道のりを大きな砲と一緒に歩いてこの地で散ったのかと思うと涙があふれてしようがなかった。
 一緒に戦い、この地で果てた方々にも、心からご冥福をお祈りしたものである。

繁栄の陰に

 この旅を通じて、中国人の懐の深さ、暖かさを常に感じた。帰国して間もなく、日本批判の大規模なデモ等があったが、各戦地におもむき、戦争の話をし、日本から来たことを伝えたが、総じて対応は丁寧で優しかった。
 特に、尋ねた知人の家族・親族総出で遠来の客を出迎え、大歓待してくれたことを懐かしく思い出す。
 今中国は、経済発展の中で全世界から注目を浴びている。しかし、観光だけでは見ることができない部分を見てきたが、華やかな表の顔とは違う大変な格差社会が現実としてそこにある。
 特に農業については広大な国土と人口を持ち、人海戦術で作業をこなしている現実は、ちょうど50年前の日本の農村風景を見る思いがする。日本においても経済発展の陰に農村から都市部への人口流出が起こり、今の社会ができた。
 私たちは過去の戦争で、本土が戦地になる不幸は辛くも避けられた。そして戦後はアメリカの庇護の下、経済発展に専念、今日の繁栄を手に入れたが、何か大切なものを忘れているような気がするのは私だけだろうか?
 中国の農村部には、まだその大切なものがあるような気がして、経済発展とともに、それが忘れ去られないように祈るばかりである。

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