JA紀南広報誌

2005年4月号p10-01

2005年4月号もくじ

世界遺産登録 シリーズ連載 その9  

郷土史家 杉中 浩一郎

 皇太子徳仁親王が熊野古道を歩かれたのは平成4年の初夏でしたから、すでに13年前のことになります。
 たまたま私が案内役を仰せつかって、第1日の5月26日には、滝尻で15分間ご説明申し上げてから高原まで歩き、そのあと車で箸折峠と近露王子に立ち寄られました。夜は近露のホテル、アイリスヒルズで「信仰の道 中辺路」の題で45分間進講をし、さらに45分間ご質問をうけました。
 第2日の27日には、車でホテルを出発して、継桜王子で石段を上って社前で拝礼された後、小広峠を少し下った熊瀬川口から、上り下りの峠道を三越峠まで、徒歩で進まれました。
 私が先導して皇太子が歩まれ、すぐあとに侍従と県教委文化財課の山本新平氏がつづき、少し間隔をおいて、警備警察官、宮内庁職員、県庁職員、報道関係者ら、かなりの人数の人々があとを追うようにしていました。
 この日は天気がよく、山では時々ウグイスの鳴き声が聞こえ、古道中の要所に来ると、立ったままで私が簡単な説明をするわけです。
 草鞋(わらじ)峠の上で「ここは多分平安後期の藤原宗忠の日記で大平緒(おおひらお)となっている所で、それが後に草鞋峠と改まったようです」と説明すると、草鞋峠となったのはなぜだろうかとお尋ねがあり、私はとっさの考えで、旅人がここで草鞋をはきかえることが多く、古い草鞋が堆積していたのではないかと思う旨を述べました。
 草鞋峠のかなり急な坂を下り、栃ノ郷の谷に来て、皇太子は小橋の上で清流の写真を撮られました。この谷のそばの茶屋跡で「仲人(なこうど)茶屋と呼ばれていました」と説明すると、「ナコウドとは」とご質問があったので、仲人という民間の言葉をご存知ないのかと思って、「結婚の媒介をする人のことです」とお答えしたら、それは分かるが、といったようなお顔をされていました。多分こんな山の中に仲人などという言葉があることを不審に感じられたのでしょう。
 草鞋峠の下りを女坂(めさか)、これから登る岩神の坂を男坂(おさか)ということから、その中間にある茶屋に仲人茶屋というような名をつけ、たいていの旅人はここで休憩したのです。しかし、皇太子はご健脚なので、休憩もせずに岩神峠へと登りました。
 ところで、皇太子はこの時まだ独身でしたが、雅子さまとのお話がある程度進んでいたのか、ついてきた新聞記者の一人は、近くご結婚なさるのではないかと話していました。皇太子妃内定のニュースが流れたのは、数カ月後のことです。
 峠の岩神王子跡で、藤原宗忠が未明に盲人に出会って食料を与えたというのはここですと申し上げると、すでにそうした史実を知っておられた皇太子は「ここでしたか」と言われ、関心を示されました。
 道湯川に着いてから、先ず湯川王子に参拝され、それから昼食となりました。配られた弁当は誰のも同じで、竹の皮に包んだ握り飯3個でした。湯峯のあづまや製だということでしたが、宮内庁の職員から、この辺の山歩きなどで作られる普通の弁当にするように、との注文がついていたそうです。
 昼食後湯川家の墓地を訪ねて、とくに五輪の古墓に注目され、ここでは山本新平氏が説明をされました。
 ご案内の任務は三越峠まででしたので、峠の上で、「これで失礼させていただきます」と申し上げると、「大変ご苦労様でした」というお言葉がありました。
(田辺市あけぼの在住)

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