JA紀南広報誌

2004年9月号p18-01

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世界遺産登録 シリーズ連載 その2  

郷土史家 杉中 浩一郎

中辺路と大辺路


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 今回世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」の中で、主要な位置を占めるのは熊野参詣道です。いまは熊野古道といわれるもので、熊野三山、すなわち本宮・新宮・那智の三大社に参拝するために多くの人々が通った道です。
 これには、紀路(紀伊路)からの中辺路・大辺路・小辺路、それに伊勢の方からの伊勢路の4つがあります。
 このうち、大辺路と小辺路は主に近世(江戸時代)に利用された道で、大辺路は田辺から那智の浜ノ宮まで、小辺路は高野山から熊野本宮までの道です。
 これに対して、紀路からの中辺路も伊勢路も古代(平安時代)からの道で、伊勢路は伊勢神宮の付近から新宮まで、中辺路は本来は田辺から本宮までで、さらに雲取越えで那智浜ノ宮におよぶこともあります。
 もっとも、上皇や貴族が盛んに熊野参りをした平安時代後期や鎌倉時代には、中辺路ということばはまだ使われておらず、紀路とともに熊野道とか熊野路と言われていました。
 4つの熊野古道のうち、ここでは田辺・西牟婁と関係の深い中辺路と大辺路を取りあげてみます。
 和歌山の方から南下してきた道(紀路)が田辺で中辺路と大辺路に分かれ、山間部を本宮の方へ進むのが中辺路、海岸線を那智浜ノ宮の方へ進むのが大辺路であることは言うまでもありません。
 田辺市の北新町に高さ約2・2㍍の道しるべの石が立っていて、ここが近世の中辺路と大辺路の分岐点です。いまはあまり注意されませんが、会津橋を渡って本町や長町(いまの栄町)を通ってきた旅人が必ず目にしたのは、この道しるべの石の「左り くまの道」という大きな文字です。
 道という字はくずし字で書かれていますので、いまの人には読みにくいのですが、江戸時代のたいていの旅人には読めたものと思われます。この「くまの道」は中辺路のことで、本宮から熊野三山へ参ろうとする者は左へ進みなさいというわけです。
 「左り くまの道」の下の方に、小さい字で「すくハ大へち」と書いていて、大辺路を通って行こうとする者はまっすぐ進めばよいという表示です。
 この文字の小さいことからでも分かるように、大辺路を通る人は比較的少なく、紀州藩の役人などのほか、大辺路の景色や風物を見ながら、まず那智へ行こうとする文人や画家などが通ることがありました。
 大辺路・中辺路と、並べて言われたりしますが、中辺路の方が熊野参詣のいわば本街道で、熊野三山の巡拝をする場合、まず本宮大社に参り、それから熊野川を船で下って新宮に行き、そこから那智へ回るのが普通でした。
 帰りには雲取越えをするか、新宮へ戻って熊野川をさかのぼるかして、本宮から中辺路を引き返す場合と、別の道をとって大辺路や小辺路を通る場合とがありました。
 中辺路と大辺路が田辺で分かれて、中辺路が本宮から引き続き雲取越えをして那智を経由したら、浜ノ宮で出合うことになります。この場合の距離は、中辺路は約84㌔、大辺路は約92㌔で、大辺路の方が遠回りになることが分かります。
 中辺路や大辺路ということばが使われだしたのは、室町時代ごろからで、いま記録として残っている一番古いのは、江戸時代のはじめに京都の安楽庵策伝という坊さんの書いた『醒睡笑』という書物で、それには、紀伊の国の小辺路や大辺路はたいへん険しい道で、人馬も通りにくいとしています。(郷土史家、田辺市あけぼの在住)

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