JA紀南広報誌

2004年12月号p16-02

2004年12月号もくじ

世界遺産登録 シリーズ連載 その5  

郷土史家 杉中 浩一郎
岩田川を渡る  

 富田川は、いまは川口から水源までの全流域が同じ呼び名ですが、古い時代には、下流を富田川、中流を岩田川、上流を栗栖川(後には芝川)と言っていました。
 そのうち、熊野参詣と関係の深いのは岩田川で、だいたい上富田町岩田から中辺路町の滝尻へかけてのあたりです。この区間の川沿いが古い熊野参詣道にあたり、稲葉根、市ノ瀬、鮎川、滝尻の4つの王子がありました。そのうち稲葉根と滝尻は五体王子と呼ばれ、とくに重要な場所でした。
 世に有名な安珍清姫の物語は、熊野参りに来た奥州白河(福島県)の僧、安珍に、真砂の里の清姫が思いを寄せたことから始まりますが、その真砂も岩田川に沿うところです。
 古い熊野参詣道は、田辺の三栖から山を越えて、西行法師のサクラの歌で知られる岡の八上王子に参り、岡川を渡ってまた山を越え、稲葉根王子の参拝をすませると、岩田川の流れに接することになります。
 いまでは川のかたちが変わってしまっていると思われますが、川の右岸の付近が岩田であることは、今も昔も変わりがありません。
 岩田は当時は石田とも書き、どちらもイワタと発音していたようで、平安、鎌倉時代の貴族の日記などには、よく「石田川を渡る」と書いています。これもイワタガワと読み、岩田川、すなわち富田川のことです。
 岩田川には、一の瀬、二の瀬、三の瀬とあり、ふつうは一の瀬を渡って、いったん対岸へ行き、また戻ってきました。それが市ノ瀬という地名のおこりですし、川の左岸に市ノ瀬王子も祀られてきました。
 岩田川を渡ることによって、熊野参詣者は身を清めることができると考えられていたのです。これをコリをかくとかコリをとるとか言いました。コリは垢離などと書き、水を浴びて身体のけがれをとることです。
 『源平盛衰記』という平家滅亡の歴史を描いた書物には、平維盛が熊野に来た時、岩田川に着いて、一の瀬のコリをかいたとし、この川を渡る者はいろいろの罪がなくなるのだと書いています。
 この場合の罪は、犯罪を指すのではなく、日常生活のなかで誰の身にもつくけがれのことです。熊野に参詣する者には、ここを渡ってけがれを払うことが大事な行事だったのです。
 天皇の身内の女性などがこの川を渡る場合は、おそばの者が直接手を引いたりするのはおそれ多いので、白い布二反を結び合わせ、その結び目につかまってもらい、その左右を女官たちが引いて渡ったということです。
 当時は上皇などは秋の終わりごろに参詣することが多く、岩田川の付近は紅葉がきれいだったようで、建仁元年(1201年)に後鳥羽上皇についてきた歌人の藤原定家は、川端の紅葉が水に映ってとても美しいと書いています。
 ところが、水が出ている場合も川を渡るわけで、修明門院という後鳥羽上皇の夫人が承元4年(1210年)に熊野参詣に来た時には、随従してきた一行のうち9人の者が渡りそこねて流され、水死するという惨事が起こっています。
 岩田川は、また歌枕といって、和歌によまれる名所でもありました。
 早い時代に花山法皇が熊野参詣に来たとき、⇒
と詠み、ほかにも西行、後鳥羽上皇、藤原定家など多くの人の和歌があります。(郷土史家、田辺市あけぼの在住)
 

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