JA紀南広報誌

2004年11月号p12-01

2004年11月号もくじ

世界遺産登録 シリーズ連載 その4  

郷土史家 杉中 浩一郎  

大辺路の歴史

 中辺路・大辺路と並べて言うことがあり、大辺路も熊野参詣道の一つに違いないのですが、その歴史は中辺路と違って、あまりよく分かっていません。
 7世紀の中頃に、斉明天皇や中大兄皇子(後の天智天皇)が、牟婁の湯と言われた湯崎温泉に入湯に来て、その間に有間皇子の悲劇の事件が起こったり、その後も持統・文武の両天皇がここに来たりして、早くから湯崎温泉は人々に知られ、日本での三古湯の一つだとされています。しかし、湯崎から東の方の海岸沿いの道については、ほとんど知られていません。
 平安・鎌倉時代には、中辺路は上皇や貴族が熊野参拝のためにしきりに往復して通りましたが、大辺路を通って熊野へ行った記録はありません。しかしその頃、海辺を巡る大辺路の険路を僧や修験者が修業のために通ったに違いないという学者がいます。室町時代になると、熊野に参詣した者が、帰りにたまに大辺路を通ることがあったようです。
 この大辺路は、江戸時代の中頃から、風光明媚で変化に富んだ道として知られるようになり、時たま画家や文人が通りました。
 画家では、串本の無量寺や富田の草堂寺に、たくさんのふすま絵を描いた長沢蘆雪が有名ですが、紀州の代表的な画家であった野呂介石なども、何回も大辺路から那智の方へ行っていました。
 江戸にいた菊池元習という漢学者は「三山紀略」と題した紀行文で、大辺路で見聞したことを漢文で興味深く表現しています。この書物の中で、大辺路は熊野参詣の帰りに通るのではなく、先に田辺の方から進んだら、海と山の見事な景観や熊野川の珍しい情景を楽しめるのだ、と野呂介石に教えられて、その通りにしてよかったので、このことをこれからの旅行者に告げておきたいと書いています。
 長沢伴雄や熊代繁里といった国学者も、各所で和歌を詠んでは紀行文の中に収めました。こうしたことから、大辺路は文人墨客の道だと言う人もいます。
 江戸時代には、大辺路の道中に茶屋や宿屋がなかったので、これらの人たちは、土地の有力者の家や寺などに泊めてもらったり休んだりしました。
 茶屋は富田坂や仏坂に大正の頃まであって、その跡が今も残っているではないかと言われるかもしれませんが、江戸時代には常設の茶屋はなく、紀州藩主や三宝院門主(修験者たちの統領)など特別の身分の者が通る時、臨時に休憩所として設けられたのです。それは御茶屋と呼んで、きれいにしつらえていました。
 こうした御茶屋は、新庄峠、富田坂、仏坂、長井坂、田並有田間の丘などの見晴らしの良い所に設けられました。富田坂や仏坂の茶屋は、明治の初め頃から一般の人がよく通るようになって、その跡で始められたものなのです。
 藩主や三宝院が大辺路を通る時には、一行が200人前後になりますので、宿泊や食事の接待、送迎などにたいへん苦労をしました。日置川や富田川を渡る時には、何十艘という川舟を並べて、その上に板をさし渡し、舟橋を作ったのです。
 熊野街道の大辺路は、細く険しい道でしたが、大正時代に海岸近くに車道が造られるまで大事な道でした。今回その一部が世界遺産に登録されましたが、まだ埋もれている部分を明らかにする努力が、地域の有志によってなされています。
(郷土史家、田辺市あけぼの在住)

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