JA紀南広報誌

2004年10月号p16-01

画像の説明

世界遺産登録 シリーズ連載 その3  

郷土史家 杉中 浩一郎
二つの熊野古道

画像の説明

 信仰の道であった熊野古道には、中世の道と近世の道があります。この二つの道は、まったく別になっているところと、ほぼ重なっているところがあります。これを簡単に見分けるには、道端に王子社の跡のあるのが中世の熊野道、一里塚の跡のあるのが近世の熊野街道だということになります。
 田辺市内の中世の道は、秋津王子の元の場所が水害で流されて分からなくなっているのと、長い間に道が変わってしまったため、はっきり跡づけることができませんが、芳養から出立王子のあたりを通って、多分、高山寺の前近くで会津川を渡り、秋津から万呂を経て、三栖王子から山を越えて上富田町岡の八上王子へと出たのが中世の古道です。岩田の稲葉根王子から富田川沿いに進み、重要な王子である滝尻から背後の山を登って、高原の熊野神社の方へ行くことになります。
 これに対して、近世の道は、会津橋を渡って北新町の道標の所を左折し、万呂・三栖を通り、長尾坂を上って潮見峠越えで栗栖川へ出ます。高原から熊野本宮へかけては、中世の道と近世の道はだいたい一致しています。
 以前は熊野古道といえば主として中世の道を指し、平安時代末期から鎌倉時代へかけて、上皇や法皇が百回近くも熊野へ参拝するのに往復して通っているので、御幸道(みゆきみち)などといって、ありがたがっていました。
 しかし、当時にあっても、熊野へ参拝したのは、皇族や貴族だけではありませんでしたし、時代が少し下がると、武士や地方豪族、次いで全国各地からの多くの農民、さらには女性や身体障害者などもあり、いろんな身分や階層の人々が難路を歩いて通っていて、むしろその点に熊野古道の歴史的な意義があるのだとみられるようになりました。
 特に近世の道は、関東・東北をはじめ各地からの農民を主体にした庶民が通ったのであり、近年は潮見峠越えや本宮町の赤木越えの道とか、小辺路や伊勢路などが見直されるようになってきたのです。大辺路の場合は少し特殊な近世の道として注目されるようになりました。
 潮見峠越えの道について言えば、室町時代の初め頃から、一般の熊野参拝者は、滝尻王子を重視する中世の道を通らず、もっぱら潮見峠越えの道を利用するようになりました。
 どうした理由でこの潮見峠越えの道が開かれたのかは、はっきりは分かりませんが、察するところ、王子社に巡拝しながら熊野へと進んだ皇族・貴族の参拝の仕方が衰退して、滝尻などの各王子が重視されなくなり、一方、滝尻の急坂を避けて、輿(こし)やかごなどの乗り物や馬が通り易くするため、新しく槙山の肩を通る道が造られたのでしょう。
 江戸時代の初めに、この道を含めて、和歌山から伊勢松阪に至る道を熊野街道として整備し、藩の役人の送迎や書状などの継送をする伝馬所を設置しました。
 東海道などにならって一里塚も築きました。これは大辺路についても同じです。熊野街道の一里塚は、若山城下から始まって、一里ごとに道の両側に塚を造り、そこに松の木を植えました。
 一里塚のあった地点には、田辺市では4カ所に標柱を建て、中辺路町では7カ所に標石をすえ、和歌山からの里数も刻んでいます。これら一里塚のうち、下三栖の森のは20里に当たるため、紀州藩の二十里外追放ではここが基準でした。
 なお、中三栖の堂中央会館の東隣は、十八公(松のこと)と呼ばれ、初期の一里塚のあった所で、正徳2年(1712年)にここから下三栖へ移されたのです。(郷土史家、田辺市あけぼの在住)

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional