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日本人に愛される梅
梅は、寒さに耐え、桃や桜に先駆けて美しい花を開き、馥郁たる香りを漂わせることから、万葉集では桜の42首に対し、118首も詠まれています。
このように梅は、「観梅」「松竹梅」といった言葉からもわかるように古くから日本人の心に深く関り愛され親しまれてきました。
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梅の起源
わが国の梅は、中国からの移植説と日本古来の原産地説とがあり、定かではありませんが、文献・学者の多くは中国原産地説をとっています。
日本では、花がまず人々の関心をひき果実の利用はその後になったのに対し、中国では果実の利用が先であったようで、古事記が成立(712年)する200年余り前の「斉民要術」に梅の塩漬けが記録されています。
日本で梅干しが初めて書物に登場したのは、平安時代の中頃であり、中世以降において果実の利用が盛んになってきました。
鎌倉時代以降、実の多くは梅干しとして食用に供され、薬用としても重宝がられ、花は鑑賞用として人々に愛されてきました。また、木は硬質のため、器物に使用されていたようです。
以来、梅干しの需要が大きくなるとともに、現在では梅酒や梅ジャム・梅エキスなど、梅製品が数々生まれてきました。
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梅の品種
梅の品種は、よく花梅(はなうめ)と実梅(みうめ)に区別されて呼ばれていますが、これはあくまで利用上の分け方であり、厳密に区別されるものではありません。
花梅と呼ばれているものは、花の鑑賞が主で結実がよくないか、又は、果肉が薄く種が大きいなど果実としての品質がよくないものが多いと言われています。
一方、実梅は、結実がよく品質のよいものが多く、花の色も白か淡紅であって紅色の濃いものはありません。また、開花は一般的に遅いものが多く、花弁もほとんどが一重です。
梅の結実性は、ほとんどの品種が自家不結実性です。
実梅の品種は、全国で約100種あるといわれています。しかし、全国的に栽培されている品種はわずかで、ほとんどが地方品種であり、関東地方の「玉英」「白加賀」「養老」、北陸地方の「藤五郎」「藤之梅」「紅映」「剣先」、東北地方の「豊後」「高田梅」などがあります。JA紀南管内においては、「古城」「南高」が有名です。
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紀州の梅
紀州梅栽培の始まり
和歌山県では、江戸時代、紀州藩田辺領下において農民がやせ地は免租地となることから、そこに梅を栽培したことが本格的な梅栽培の始まりと言われています。
また、田辺領(城代家老 安藤直次)がやせ地を利用した梅の栽培を奨励し、保護政策をとったため、田辺、南部地方を中心に広がったとも伝えられています。
江戸時代中期には、江戸への紀州の木材、木炭、みかんとともに梅干しが送られていましたが、そのころの梅は「やぶ梅」と言われ、現在栽培されているものとは比較にならないほど品質は劣っていました。
明治初年頃から梅干製造業者も出現し、明治10年代にはコレラ、赤痢などの流行があったこと等から梅干しの需要が多くなっています。
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栽培面積の増加
梅の栽培が急激に増加したのは、明治40年以降です。これは、日清・日露戦争による軍用食としての梅干し需要の増加によるものでした。また、第二次世界大戦中にも奨励されたこともあり、生産量が急増したものの、第二次世界大戦末期から昭和22年頃までは、食糧難のため、梅の木を伐採してサツマイモ等を栽培したことから、梅の栽培面積が著しく減少しています。
戦後、社会経済の復興とともに、果実類の需要も増加し、梅の栽培も昭和30年代以降は急速に伸びています。
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紀州梅の発展
その後、優良品種の「古城」「南高」の出現と高度成長期に入り、食生活の多様化による梅の需要の伸びとあいまって、昭和35年頃からさらに、栽培面積が増加しました。
一時、梅干し需要の伸び悩み等で、栽培面積増加傾向も横ばいとなっていましたが、昭和56年頃より自然食品や健康食品ブームによって梅干しが消費者に見直され、価格の上昇と面積の増加が図られており、質・量ともに日本一を誇っています。
また、それとともに、加工面においても梅干し、梅酒だけでなく、ジャム、エキス、ジュースと多方面に活用されブランドの紀州梅産地として発展を遂げてきているのです。
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